の語りこ1
いきなりの記事で驚かれた方、申し訳ありません。
2012年に発足した角舘徳子のこぎん刺し。4周年間近、もうすぐ5年目になります。
新年度を前にして少しずつ自分(のりこ)のことを振り返り、またはリアルタイムで、語っていけたらと思います。
そうです、”のりこの語り”で、”の語りこ”。可笑しいですね、
くすり。と笑っていただけたら嬉しいです。
それでははじめます。
私の大好きな漫画家さん。大島弓子さん。
その方のエッセイ漫画のなかで
”桜の花は見ても見ても見ても遠い感じがする”
という言葉があります。
最近私は、こぎんって刺しても刺しても遠い気がすると感じています。
もちろん伝統模様を組み合わせ、模様をデザインしていく訳ですが、刺し上がった布を見ると”これは本当に自分から生まれたものだろうか?“という疑問に突き当たるのです。
布の目をひたすら追い刺し綴っていく。この行為をしたのは自分のはずなのにいざ出来たものをみると、遠い。自分から離れたところに、模様が完成し、或る。
目を拾ったのは自分だが、この布目を作ったのは?綴った糸を撚ったのは?そして、この模様を産み出したのは…?
突き詰めるとその疑問に行き着きます。
なぜか、なにか宙に浮いた、こころもとない気持ちが滲んでいきます。
自分のものであって、確実にそうとは言えないこぎん刺し。
今、その気持ちと向き合っています。
その遠さは、かつて生地となる植物から繊維をとり、糸を績み、織って染めた生活から離れてしまった私たちと、それを実践していた先人たちとの距離なのかもしれません。
そうしてできた過去のこぎん刺しは、家族や村人たちが寄り合い力をあわせ、まだ見ぬ相手やその家族を思い作ったものだったでしょう。
私たち、いや、私はもう再現できない表現・距離を追い求めて焦がれるしかないのでしょうか。
・・・・・・・ あるいは私が遠いと思ったのは、他人(ひと)との距離だったのかもしれない。友人や家族 。故郷の人々、住む街の人々。
ーそれは物質的な、精神的な…ー
私は勝手に孤独になっていたのでしょうか……。 ということをここ数日ずうっと考えていました。
これでは、まるでエヴァンゲリオンのパイロットたちの問答のようです(笑)※主にA.T.フィールドのくだり。 けれど、エヴァも、こぎんも、工芸も、ヒトのためにあるものだから。
人との関係を絶ってしまっては、そして人を想う心が無ければ、成立しない行為です。 私にできること、私にしかできないこと、見据えて生きたいと思います。 いいえ、今度は''人のために''私ができること、私にしかできないこと、考え見据え実現していけたらと思います。
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ところで、私の愛犬バッポは、さわったらさわっただけそこに居(あり)ます。
等身大の熱量と質量、それに有り余る無邪気さとパワーが、どどーんと存在しています。
それ以上かもしれません。
なぜなら、写真に写ったバッポは感じたより小さく見えるから。実物のバッポはもっともっと大きく存在しています。(と、私は感じます。)
今夜はここまでです。お付き合いただき、ありがとうございました。
何となく書き、なんとなくこぎんのワンピースを着せてみました。