角舘こぎんの夕べ 第2夜
この度、Day art challengeに指名して頂きました。 それでは Day art challenge2日目、角舘こぎんの夕べと題しました。第2夜始まります。 <農婦とこぎん刺し> 前章、角舘こぎんの夕べ第一夜でも書いたように、江戸時代農民たちの知恵で発達した技術•こぎん刺し。今夜は少し踏み込んでお話したいと思います。 こぎん刺しは主に嫁入り前の娘たちの仕事でもありました。いわば嫁入り道具の一部で、身頃だけ刺した布を嫁ぎ先へ持って行き、そこで初めて会う婿家族の身丈にあわせ、着物に仕立てたと言います。当時の結婚は、現在とはまた違った意味を持っていたことが窺えます。 また、こぎんが得意な娘は頭が良く辛抱強いという言い伝えがあり、嫁のもらい手には困らなかったと伝えられています。 今でこそこぎんは、方眼用紙に製図してからの刺し工となります。しかし当時は模様を全て暗記し、頭の中で組み立て計算し、いきなり布へ刺していたわけです。なので、こぎんを刺す娘はその計算力と、模様を間違えた際の冷静な対応力を評価されているということになります。こぎんを刺す上での辛抱強さは、今も昔も変わらないかもしれませんね。 凄いのは、家族が寝静まってから囲炉裏端で刺したともいいますから、当時の人たちの布に対する感覚はとても研ぎすまされていたのでしょう。3、4才になる頃から針を持たされるという修錬の賜物かもしれませんし、あるいは夏場麻の繊維を梳き、績み織るところから作っていたからかも知れません。 また、当時の女性たちは生活のものを手をかけ作ってきたでしょうが、やはり得意不得意は当時からあったと思われます。こぎん刺しもその例にもれず、こぎんが大好きな娘さん、苦手な娘さんがあったそうです。 苦手な娘さんもいつかはお嫁に行かなくてはならない。そこでどうしたかというと、得意な娘さんに米一俵など持って行き、刺してもらったそうです。そう考えると、こぎん刺しの価値は今とそう変わらないのかもしれません。 また、身体の弱かった女性が、嫁ぎ先の奉公に耐えられず実家に戻りこぎんを刺し、生計を支えていた記録もありますから、当時からこぎんは生業として捉えられていたのかも知れません。 ちなみに西こぎんが一番布目が細かかったためその地域の女性はとくにもてたそうです。 <角舘とこぎん刺し> そんな高女子力の象徴•こぎん刺しですが、角舘の女子力の程度は模範的ではありません。 それはさて置き、私はこぎん刺しをする上で守っている事が3つあります。 ・麻生地に綿の糸でさす事 ・モドコ(伝統模様)を使う事 ・自然の染料で染める事(できれば青森の草木) それぞれ、昔から守られてきた事でありますし、そこから外れてしまってはこぎん刺しと呼べなくなると私は考えているからです。 こぎん刺しの捉え方は作家さんそれぞれで良いと思っていますが、私が行う上ではこの3つは守って行きたいと考えています。 それはこれからこぎんを伝え守って行く事、そして名もなき津軽の女性たちに対する敬意のようなものと捉えて頂けたら幸いです。 布の目を追い、新たに糸を足して行くという技法は世界的に見てそれほど希なことではありません。(補強•保温という役割を除き) それ故にこぎん刺しがこぎん刺しである条件というのは、非常に危うい中にあるといえます。(例えば、クロスステッチの模様をこぎんの技法で表現することはいとも簡単なのです。) そこから外れないように作家としての自己を表現することもまた、非 常に難しく危ういことです。これはこぎん作家として生きて行く以上、一生向き合って行くべき課題になるでしょう。 また、こぎん刺しとは古作の再現であるべきか否か。なにをもってこぎん刺しと呼ぶか。 これらの問いは今後の私のテーマです。 さて、角舘こぎんの夕べ第二夜いかがでしたでしょうか。こぎんの夕べなんて題して気軽に書き始めたのですが、気付けば角舘こぎん研究論序論ともいうべき内容になってしまいました。 まだまだ研究の道半ばです。 今晩も長らくお付き合いいただきましてありがとうございました。 明日夜第三夜は『角舘のこぎん第2章』、模様と草木染めについてです。よろしくお願い致します。 作品画像 草木染めのストール
2014年始めに制作した作品です。